キャベンディッシュ研究所 固体理論部門
Volker
Heine先生の筆により50周年記念式典で配布された文書をHeine先生の許可を得て訳出しております。
1. 発足の年、1954年
TCMグループは1954年、Nevill
Mottがブリストル大学よりキャベンディシュ教授職として着任した事を起源としている。TCMグループの前身である「Solid
State Theory [SST]」グループの立ち上げに際し、同年、MottはJohn Zimanを講師として着任させた。
キャベンディッシュ研究所は歴史的には實驗物理学科として系譜を辿っており、こうした事もあり、當時の理論研究の状況としては各實驗グループに1名乃至
2名の理論家が各
個で仕事をしているというような状況に
あった。また本来の理論物理学部門は、今日の「應用數學及び理論物理学科」で行われているような研究内容を主務としており、當時、微視的な固体理論に興味
を示す研究
者は皆無といえる状況であった。
第二次世界大戦を通じての経驗や當時の米国の研究動向から、Mottは實驗研究とより連携した理論研究の重要性を感じていた。またキャベン
ディッシュ研究所内においても固體理論の研究が潮流として成長しつつあった。例えばShoenbergやPippardによ
る金属のフェルミ面形状に関する研究、Pippardによる超伝導のコヒーレント長概念、Taborによる表面物理の研究、CrickとWatsonによ
るDNA発見につながる構造解析の研究、Peter
Hirschによる結晶構造欠陥解析への電子顕微鏡の應用などがある。固體理論部門創設の背景には、こうした事情があった。
2. Nevill Mott教授(後にMott卿)
Nevill
Mottが着任したキャベンディッシュ教授職(1954-1974)自體は固體理論部門とは形式上無関係である。ただ当然の事ながら、Mottの存在、そ
の
研究内容、彼を訪れて出入りする人間、また在任期間中に何度か採用した学生は固体理論グループにとって大変重要な影響を与えた。Nick
RivierはMott直属の学生の一人だが事実上TCMに机を置いた。Mottはグループを意識して活動した訳ではないので、以降の固体理論グループの
歴史に
表面にはなかなか登場しないのではあるが上記のような影響をもって常に存在していたといえる。
本文の筆者であるVolker
Heineは1954年に博士課程の学生としてMottに師事したが、Mottは学生の指導よりも第一線の実験家と協力してアイデア
を練る事に興味があるのだという事に気付くまで時間がかかった。Mottは最初、筆者にキャベンディッシュの別の研究者に師事することを勧めたが、筆者は
一日考えた末、地球を半周近くも廻ってやって来たのだから(※Heine先生はニュージーランド出身)、そう簡単に諦めてはいけなかろうと決断し、必要な
時以外には出入りしないからという事でMottに師事する了承を取り付けた。そこで与えられた課題というのが「階下の低温物理グループのと
ころにいって君が有用な人材となり得るかどうか」というもので、此の様な事がMott自身の理論家としてのコンセプトであったのだが、幸い筆者の出身
地ニュージーランドの文化とも合致していた。
この當時、Mottの興味は格子欠陥、乱れのある物質中での電子状態、そして金属絶縁體転移といった問題にあった。またMottの関連でキャベン
ディッシュに出入りのあった研究者としては、Hans Bethe、Philipe Nozieres、Phil
Andersonといった面々がいる。Phil Andersonは1961-1962に講義を担当し、Brian
Josephsonは其の受講生の一人である。講義ノートはLu Shamによって詳細にまとめられ、後に「Concepts in
Solids」という書名で出版された。またDavid Thoulessが當時の研究員として在籍している。
Mottは退官の後、PCSグループ(Physics and Chemistry of
Solids;固体の物理と化学、實驗グループ)内に机を置いて、PCSグループ、及びSPグループ(Semiconductor
Physics;半導体物理、實驗グループ)の研究者達と、主にアモルファス半導体、金属絶縁體転移、金属の最小伝導度、ホッピング伝導といった問題で交
流を続けた。その後、新たに発足した超伝導IRCグループ(Interdisciplinary Research Centre
in Superconductivity)に机を移し、1996年91才で亡くなるまで精力的に論文出版などに努めた。
3. John ZimanとSSTグループ(1954-1964)
John
Zimanは、ケンブリッジに着任する以前のオックスフォード時代には、磁性分野を主な研究對象としていたが、ケンブリッジでは固體電子論の研究に主軸を
おく事にした。そこで分野のおさらいも兼ねて、代表的著書「Electrons and
Phonons」の執筆に取りかかった。この執筆を通じ、Zimanは、とりわけ輸送理論について、多くの研究課題を掘り起こした。乱れた物質中での輸
送の問題は特に時期を得たものであり、sp電子で結合した金属の溶融状態での電気伝導の計算などを手掛けたが、これは今日明らかになっている數々の理由が
幸いして、驚くほどの成功をおさめた計算となった。
Volker
Heineは此の時期、シニア・メンバーとして在籍している(1957年に特別研究員、1958年に講師職)。Zimanが1964年にBristolに
戻るまでの時期に在籍した大学院生としては、Lu Sham(香港)、Neil Ashcroft(ニュージーランド)、Maurice
Rice(アイルランド)、Leo Falicov(アルゼンチン)、Federico
Garcia-Moliner(スペイン)など、今日著名な研究者が名を連ねる。英国出身者が一人もいないという點に氣氣付かれようが、確かにどのグルー
プにも一
人も居らず、ZimanにしてもHeineにしてもニュージーランド出身である。ケンブリッジ純正の若手理論家は固体の理論などではなく、むしろ場の理論
や
グリーン凾數法、あるいは核物理学を専攻したがったという事情が背景にある。
Zimanは研究だけでなく、廣く大学人として活動的であった。大学院コースに系統立った講義を整備したのはキャベンディッシュ研究所初の試みであった
し(この講義ノートが後に、著書「Principles of the Theory of
Solids」にまとめられる)、固体物理学の広汎な分野を対象とした輪講會も主催した。この時期の大学院生は、どちらかというと放任された観がある。
Zimanはキングス・カレッジで最初の'tutor'(カレッジの個別指導教官、Zimanの場合は大学院生向けの管理事務一般も任される)となってい
る。
1950年代後半から60年代前半の時期というのは、ケンブリッジにおいて(英国の大学界全体においてもそうであるが)、大きな変革の時期であった。第
二次世界大戦を終えて、新しい時代に向かうために数多くの改変が迫られた。実際、王立委
員会が、所謂、オックスブリッジの複雑なシステムをもっと簡素化すべきであるという勧告を行い我々に脅威を与えた。こうした背景の中、John
Zimanは友人のJasper Roseと協力して、「The
Cambridge
Review」の編纂に尽力し、それまで、大学改革に關して数々のジャーナルに分散していた意見をまとめ上げる役割を担った。彼らは、
新しい號を発行する度に、一つの「生け贄」として何か改革成果を上げるという事をモットーとしていたようで興味深い。もちろん、大学やカレッジ側も、徐々
に自ら進
んで変革を實行するようになった。例えば入学金制度改革や、大学院の予算確保の問題など、数々の改革が行われた結果、結局、王立委員会勧告は實行に移され
る事なく済
んだ。このように、改革の必要性が漠然としか認識されなかった時期に、この問題に焦点を絞った業績は重要で、我々はZimanとRoseに大いに感謝すべ
きであろう。
Zimanは1964年にBristolに移る。
4. Phil Andersonと多體理論(1967-1975)
MottとPippardの業績の一つは、大学側に掛け合って固体理論の教授ポストを確保したという事である。この「Physics1966」と呼ばれ
たポストには、1967年にP.W.
Andersonが着任した。但しケンブリッジとBell研究所を半分の割合で兼任している。Andersonはグループを主催し、Heineがその実質
的管理を担当した。このグループでは毎週水曜に定期的にパブ・ランチの機会を持ち、太陽の下で色々と語り合った。
Andersonは當時のメンバーにつき以下のように回想を記している:
「1967年着任當時の学生のうち、Gideon
Yuvalは特に優秀で意欲的な学生であった。Yuvalとは、當時、私が新しい着想として取りかかっていた赤外崩壊の研究を行った。以後、1969年ま
で、特にJohn
Hopfieldに励まされながら、Yubalと共に近藤問題の解法に取り組んだ。この仕事は理論物理の広い分野から反響を得た。例えば、1次元電子ガス
の問題、コスタリッツ・サウレス転移、X線吸収端の問題など、どれも現代的問題である。この一連の仕事において我々は、繰り込み群の方法を初めて物性物理
に適用した。Yuvalはその後、イスラエルのモサドに戻り、10年ほど前に彼からMicrosoftに移ったと便りをもらった。その後、此の研究は
John
Armytageに引き継がれた。彼の学位論文では、後の有名なウィルソンの計算ほどの分量には至らなかったものの、十分評価に値するような計算をあげて
いる。Armytageは、その後、塗料業界に就職した。実はArmytageもYuvalも、私の学生のうち、基礎研究分野から産業界に就職した最初の
学生である」。
「John Leknerは、Brian JosephsonとHe中のイオンの問題など幾つかの仕事を共同で行っていて、Roger
Bowleyなど優秀な学生も参加している。Leknerは准講師職(當時はDemonstratorshipと呼ばれていた)の任期を終えるとニュー
ジーランドに戻っていった。Josephsonは、pre-Wilsonian相転移理論においても重要な業績をあげている。彼は1967年に理論グルー
プに参加したが、その前に、Pippardの低温物理のグループ、後にMond
Laboratoryと呼ばれるグループに在籍していた。ジョセフソン効果の発見は、もちろん言うまでもなく著名な業績である」。
「私は超伝導の問題にも相変わらず興味を持っていて電子格子相互作用に関する基礎的な問題を考察していた。例えば、Marvin
Cohenと共著でTcの最大値に関する論文を著したが、正しい論文であるのに、随分と槍玉に上げられたものである。また電子格子相互作用に関する
Bill
McMillanのアイデア、つまり、Dynes-McMillanの論文でやっているような體系化した理論構築の問題も随分と考えた。この問題は70年
代に我々の部門に参加してきたJohn
Inksonに引き継いだ。彼は多體理論の形式論に基づいて取り組みを続け、後に著書を著している。この著書は、當時の数年間、私がこの話題に關して
「Part
III(学士数学教程第三)」で講義したノートが基になっている。私は彼に、金属と半導体の界面の問題を与えたのだが、これに對しInksonは所謂GW
法を編み出した。これは後にSwedesにより、局所密度近似法のバンドギャップの問題を改善するのに用いられる。Inksonは、論文數自体は大して多
くはなかったが、キャベンディッシュに講師職を得、後にExeter大学に移り、教授を経て副総長へとキャリアを積む。
「我々がまだ『虹の時代』(大陸間を虹のように跨いで活躍していた時期)にあった頃、Wai-Choo
Kokがマレーシアからの学生として参加している。彼女の題材としては、當時、磁性合金の複雑系で実験上の謎とされていた問題、即ち、私が、69年〜70
年の論文において「スピングラス」と名付ける問題を扱った。彼女は現在、シンガポールで教授の職にある。スピングラスの会議の席で、私はMydoshによ
る決定的な実験業績を知る。此を受けて、74年から75年にかけて、Sam
Edwardsの協力を受けて、この問題に取り組んだ。この業績として著名なレプリカ理論に到達し、Richard
Palmerの協力で1977年、スピングラスに関する有名なThouless-Anderson-Palmerの論文を仕上げた」。
「Patrik
Fazekasも、『虹の時代』の人物である。彼はハンガリーから自前の予算で來ていたが、彼にはRVB(共鳴価電子状態;Resonating
Valence
Bonds)に關する課題を与えたが、このアイデアは近頃もリバイバルとなっている。我々の手掛けた72年〜73年にかけての論文は、内容は刺激的ではあ
るが、決定的な結論に至るものではなかった。Fazekasからは、何度か便りをもらっているが、ドイツで過ごしていることが多いようである」。
「Volker HeineやRoger
Haydockと當時、興味を共にした話題としては、化學ポテンシャルの問題があり、ボンド、イオン、配位子錯体といった純朴な化学的描像を理論的に捉え
直すという仕事を行った。重要な點は、こうした化學の概念は全て局所的な性質であって、そもそも非局所である電子構造理論の枠組みとは独立に生起してきた
という事である。そこで此の問題に對して、Cohen-Heineの擬ポテンシャルに関する着想に基づいて、超局所非直交ワニエ凾數に対する方程式を導い
た。この仕事では、北アイルランドから学生だったDave
Bullettが非常に優秀で、この問題を引き継いで、かなりの程度まで研究を進めたが、LDA研究コミュニティの強い圧力もあってPhysical
Reviewに此の成果を出版するのには困難を要した。そこで、Seitz-Turnbulのシリーズの第35巻に、Bullett-Haydock-
Heine-Mike
Kellyの共著で総説を書いた。Bullettは其の後、Bath大学で学科長を務め、彼の尽力でBathの当該学科は「最も恵まれた学科」という賞賛
を得るまでに至るが、その後、悲劇的な死を遂げた」。
「1970年あたりから再び、局在や乱れについて考えはじめ、2準位中心、フェルミ・グラスの問題などについてMottとの議論を再開した。75年夏に
、「negative
U」(負の電子間斥力パラメタU)に関する論文をNatureに出版した。ただ、思い出すにMott、それからビジターであったMorrel
Cohen以外のいずれの「Cantabridgians」(ケンブリッジ大学関係者)とも交際はなかった」。
「1960年代中頃になると真に優秀な英国出身学生が来るようになった。例えば、多體論サイドでは、Richard Palmer、Alan
Bishop、John Armytage、Mike Cross、Duncan Haldane、Roger Bowley、John
Inksonといった面々、また、一電子理論サイドでは、Dave Bullett、John Inglesfield、John
Pendry、Denis Weaireらである」。
「Richard
Palmerは1974年あたりから、状態方程式に關する学位論文などを通じて中性子星に關する研究を始めた。ただ、この問題に関連して、有用な議論から
私を「超流動グリッチ」の着想に至らしめるのは、再び『虹の時代』に来ていたNaoki
Itohであった(伊藤直紀、上智大教授)。このアイデアは後に私がPrinceton大学に出てから、Ali
Alparの学位論文としてまとめられる。Alparは中性子星の研究業界で活躍していて、現在はトルコの物理学界にいる。Richard
Palmerについては、John
Hopfield(米国からのビジター)が彼の質を見込んで、彼をPrinceton大学に送る。Palmerは、それからDuke大学に移り、そこで
「経済物理学」の創始者の一人になるが数年前、仕事も最高潮だった頃に脳卒中で倒れ、現在は殆ど、復帰の難しい状態にある」。
「英国滞在の『締め括り』として二つの大きなプロジェクトを手掛けた。一つ目は執筆に關する仕事で、1973年秋にサバティカルでコーンウォール地方の
新しいコテージに滞在して多體理論に關する講義ノートの練り直しを行った。この講義は以前、Maths
Tripos-PartIII(学士数学教程第三))の講義として担当したものであるが、以前から自身の研究で用いてきた基礎概念、即ちモデル化、解析接
続、對稱性の破れ、繰り込み群といった概念を基に構成し直した。以降、私の講義は此のノートを基としており、その内容をまとめて1983年に「Basic
Notions of Condensed Matter
Physics」として出版したが、それなりに影響力のある著書だったと思っている。出版までに時間がかかってしまったのは、私が怠惰だったからといえる
が、実は強相関物理の項目を、ずっと保留にしていたという事情もある。これは、それなりに正当な事であって、実際なかなか此の問題を(本に書けるまで)キ
チンと理解出来なかったのである」。
「二つ目のプロジェクトはHe3の超流動の問題であった。これは72〜73年の冬にChandra VarmaやBill
Brinkmanと一緒に手掛けた。この仕事は問題自体が難しく、分野での競争も激しいので、当初、Mike
Crossには参加しないように勧めたのだが、彼は、ベル研での夏の間じゅうBill
Brinkmanや私と一緒に仕事して、重要な論文を数本仕上げている。これは我々が74年にまとめた総説論文から引用してある。Crossは其の後、ベ
ル研にしばらくいた後、カリフォルニア工科大学にうつり、流体力学分野の重要人物となる」。
「Duncan
Haldaneの学位論文(Princeton大学にて修了)は、私の中では珠玉のアイデアの一つというわけではなかったのだが、此により彼のその後の方
向性が、より彼の向いている方向に逸れていったといえる。Haldaneは、Nozieresのポスドクとして非常に鍛え上げられてから
Princeton大学にやってきたのだが、かつてないほど優秀で、また、かつてないほど不可解な数学を操る人物と評された」。
(以上、Andersonの回想終わり)。
David
Thoulessは64年から65年にかけての短い期間、スタッフとして在籍し後に70年代と80年代に、英国学士院の教授職として何回かTCMに來
ている。
5. 1964年から1975年にかけての電子構造理論など
John
Zimanはブリストルに移った後、ブリストル大学とケンブリッジ大学の間で交換プログラムを始め、毎年人材の交換を計ったが、一方でHeineは此の時
期、英国ひいては欧州の学術的孤立を感じていた。この時期の米国からの訪問者は大変重要で、例えば、(何人かは64年以前となるが)、Jim
Phillips、Morrel H Cohen、Bill McMillan、Marvin L Cohen、Walter
Harrison、John
Hopfieldといった面々がいた。Harrisonを除いては、皆、ベル研、あるいはシカゴ大学を経験した人材である。Harrisonに關しても、
Morrel
Cohenがゼネラル・エレクトリック社の顧問をしていたつながりで、シカゴのコミュニティの一員である。これら米国の研究者らは、経費向こう持ちで
Heineの招聘を続けてくれたため、1970年代までHeineは米国の出島な立場で仕事をする。実際、この時期、TCMの博士課程を了えた優秀な人材
にとってベル研に行くか、あるいは、米国の上記の面々のグループに行くかどちらかという、殆ど二つの選択肢のみという事態になってきていた。
電子論のサイドでは、Igor Abarenkovの訪問が、「模型擬ポテンシャル」の誕生をもたらした。また、Alex
Animaluによる擬ポテンシャルの數値リストは、論文引用上の「ベストセラー」となった。Denis
Weaireは擬ポテンシャルを用いて、sp結合金属系の物性や構造に關する数多くの事實を説明した。こうした業績につき、Heineがベル研で講演を行
うと、かのConyers
Herringは、「1時間でこんなにも物理を学んだのは初めてだ」と感想を漏らしたものである。これらはSeitz-Turnbulのシリーズの第24
巻に、Volker Heine、Marvin Cohen、Denis Weaireの共著で総説としてまとめた。
電子論に關するその他の業績としては、David Pettiforによる遷移金属の問題、John
Pendryによる低エネルギー電子線回折の業績(§7後半に詳述)、John Inglesfieldによる合金や表面の問題、Mike
Finnisによる金属の構造や表面の問題、また、Bob (R.O.) Jonesによる半導体表面の最初の現実的計算などが挙がる。
後に准講師となるRoger Haydockは、計算機管理職にあったコンピュータ数理の専門家Chris
Nexと共同で、再帰法による計算手法を開発する。これは電子構造を、局所的な原子環境の立場から研究するための手法である(§4でのアンダーソンの回想
参照)。彼らは、研究競合が秘匿に進められるのが当たり前だった時代にあって、何と自分たちの計算プログラムを磁気テープに燒いてタダで頒布していた。彼
らは、わかりやすいマニュアル類やサンプル計算などを添えて、ユーザが使いやすい計算コードを開発するという、新しい研究スタイルの流れを作り出している
かに見えた。再帰法を用いた局所的立場からの研究は、Seitz-Turnbullの35巻のテーマとして、Haydock、Mike
Kelley、Heineの共著で総説が納められた。
他にも言及すべき秀逸な業績がたくさんあった。この時期、海外から主要な貢献をしたポスドク、ビジター、院生としては、§4に挙がった面々の他、Bob
Shaw、Naoki Itoh、Bob White、Chandra Varma、Denis Newns (英国出身ではあるが)、Michel
van Hove、Risto Nieminen、Erio Tosatti、Abhijit Mookerjeeといった人物が挙がる。
グループの秘書としての最初の人物はSusan
Cattellで、1965年から参加している。他、記憶に鮮明に残る秘書スタッフとしてはChristine Burton、Rosaleen
Darlington、Linda Webster
(旧姓Parsons)がいる。数年間、我々と仕事を共にしニキビ面の学生達の面倒など見ながら、後に世界中に飛び出て何かもっと大きな仕事をする、
彼らはそういう事が出来ると心に決めて、我々を飛び越えていった。より卓越したレベルに向けて努力する事は、大学「University」という概念を規
定する事項の一部なのである。Susan
Cattellは学位を取得の後、カナダで2人の子をもうけて、最終的にカイロのブリティッシュ・カウンシル英語学校の副校長を勤め上げて退任した。
Christine Burtonには語学の才能があって、彼女はその後、欧州議会で翻訳・通訳などの仕事に携わった。Linda
Websterは、退職後すぐにイースト・ケンブリッジ地区の知事の事務所スタッフに加わり、彼女よりずっと年長の女性同僚が何人もいる中、此をごぼう抜
きにして知事の私設秘書となった。Rosaleen
Darlingtonは、Heineが知る如何なる女性よりも服装のセンスが優れていたが、母親となってからも其のセンスは失われていない。
6. 理論部門としての役割、計算機による研究や實驗部門とのかかわり
まず計算機に関する事情から振り返ろう。Volker Heineは1954年に大学院生としてグループに参加し、往時の計算機「EDSAC
I」を用いて博士論文をまとめた。この計算機は米国外で最初に作られた一般用途の電子計算機で、ここケンブリッジで建造された。この計算機を用いて相当
量の非常に質の高い研究業績があげられた。當時は夜中に誰かがテープリーダにテープを補充せねばらならず、徹夜で肩を揉みほぐしながら過ごした仲間として
思い起こされるのは、星団構造の計算をしていたFred
Hoyle、ハートリー・フォック法をより重い原子へ適用しようとしていたHartreeの学生達、また分子の配置間相互作用計算でガウシアン軌道法を発
明したFrank
Boysなどがいる。當時は、物理と化学での違いは著しかった。化学者である「Boys一味」は最初の3元素分子として水の計算を手掛けていたのだが、一
方、物理の分野ではシリコンやゲルマニウムのバンド計算は数年前にあがっていて、電子の有効質量の大きな異方性に起因して「重い」正孔や「軽い」正孔が存
在する事を理論的に説明していたし、また光学吸収端の形状もフォノンの間接遷移によって説明されていた。
TCMグループ(當時はSSTグループ)では計算機を用いた研究は心から受け入れられたし、結果として實驗と理論の距離も縮めた。ただ、当然の事なが
ら、こうした風潮は物性理論のコミュニティ全般には廣くは伝搬しなかった。計算機による理論研究など真の理論研究ではないと蔑むようなところもあったので
ある。そのような風潮は今でもde
Gennesの影響などでフランスには大きく影を落としているし、またほんの数年前の事だがドイツの若者が言うにはHeineのような計算物理を主とした
業績ではドイツの理論物理学界だったらば教授職などには決して就けないだろうという事であった。當時もこうした風潮は大勢を占めていたけども其れが全く正
しいという事ではなかったし(多少の例外もあろうが)、今ではだいぶ、そういう風潮も薄れた。
實驗サイドからはBrian Pippard
(1971-1982;キャベンディッシュ教授職)が今後の理論グループのあり方について、「理論家としてMottのような人材と、Bardeenや
Andersonみたいな人材の他、あとに一體どのような人材など必要なものか?」というような意見を持っていた。当然のことながら、キャベンディッシュ
研究所が今後持つべき研究資源、人材といった問題に差し迫った関心が集まった。例えば、新しく建造される新キャベンディッシュ研究所には、理論グループに
十分なスペースが計画されてなかった。理論グループがあてがわれたMott棟の最上階は当初、實驗グループに割り当てられていたため我々が彼らを階下に追
いやる形になってしまった。また教職ポストの面でも、同様の事情があり、John
Pendryにポジションを確保することが出來なかったし、Roger
Haydockは講師職に昇任出来なかった。Haydockについて言えば、講師職に昇任した他の3人の論文引用數を総合しても、Haydockの引用數
にはかなわないくらいの業績があったにもかかわらずである(PendryにとってもHaydockにとっても、恐らく長い目でみれば、それでよかったのだ
ろうが、當時は予期せぬ痛手であったのだ)。
時が経つにつれ、計算機による理論研究のスタイルも變化してきた。当初は理論曲線などといった理論の帰結が先ずあり、これと實驗結果とを對應させるため
に、具体的なパラメタ數値などを代入して計算を行うというスタイルであった。研究スタイルを厳密に分類するのは難しいが、時代を経てくるとシミュレーショ
ン的なスタイル、すなわち、物理の基礎方程式なりの基礎法則を直接計算機上で走らせ、何が帰結として出て來るかを観測するというやり方が増えてきた。
John Pendryによる低エネルギー電子線回折の計算などは、そうしたスタイルの草分けであった。
Chris
Nexは当初、奨励資金で研究助手としてグループに参加していたが、研究現場において計算機数理やハードウエア、ソフトウエアなど計算機に關する知識に大
きな需要があるのを知り、大学の計算機管理職に転向し着任した。Nexは、次第にその必要性を増しつつあった物理学科の学部生向けの計算機教育を導入し
た。また彼以降、末尾のスタッフリストに見るように、グループの計算機管理職ポストが続いていくことになる。
次に研究所内の理論部門としての役割に関する議論に移る。TCMでの理論研究、計算機研究プロジェクトの目的として、キャベンディッシュ研究所での實驗
の理解を助けるような目的で行われた研究は幾つか存在し、TCMグループでも、研究資金が許す限り、そうした研究を最優先としてきた。例えば、かつて
Yoffeの層状物質に關する研究プロジェクトで研究資金を得た事もあった。ただYoffe自身が主張したように、こうした事自体が理論部門の存立の主目
的でもなく、また理論部門が存在する事による研究所の利益でもない。理論家が實驗研究の助けになる在りようとは、實驗研究の基盤となる概念を明確にし、さ
らに此を純化し、また他に伝えていく事である。こうした部門としての役割は、TCM内部のスタッフのみならず、TCMに來ている相当數のビジターも、こう
した役割を担うべきである。実験研究は装置のくみ上げや調整に非常に時間がかかり、それに要する資金はカウントされないことさえある。したがって世界を飛
び回って新しい着想を持ち帰るという機会において理論家は実験家に較べ常に優遇されていると言える。実際、20世紀初頭からの国際會議の集合写真などを眺
めていると、そのような気がしてくるのである。
しかしながら「近いのに遠い」というか、TCMの仕事が肝心のキャベンディッシュ研究所内ではなく、むしろ研究所外の實驗研究に適用されて成功を納めた
という事例が度々あり、これは若干、後悔を感じるところである。以下の話はPendryの低エネルギー電子線回折(LEED)の理論に關する事例である:
1950年代に超高真空技術が発展し、表面を原子レベルで清浄に保つ事が可能になった。これにより表面でのミクロな計測が十分な長時間で可能となり表面科
学が飛躍的に進展した。LEEDはバルク結晶構造解析におけるX線回折のアナロジーを用いたものであり、表面の原子レベルの構造を解析するツールとして最
も有望視された技術であった。原子は、X線と違い、電子を強く散乱するため電子線は表面の数層のみしか透過せず其れゆえ表面情報のプローブとなるというの
がLEEDの原理の要點である。このとき電子線と原子間の相互作用が強いため、散乱ビームは原子構造と単純な関連付ける事が出来ず問題は非常に複雑とな
る。したがって此を計算で扱おうとすると完全に量子力学的な扱いが必要とある。先ず何か構造を仮定して、その仮定が観測される散乱ビームの形状を再現する
まで、仮定構造をいちいち再設定して試行を繰り返すのである。このような問題を當時の計算機資源で遂行するのはなかなか困難で、Heineは此の問題を
John Pendryに提案したのだが彼はそれを見事に克服したのである。
Pendryはまず、電子ビームの強い前方散乱については厳密な計算が出來るという事に気付き、したがって、より弱い後方散乱は摂動論の思想で漸次近似
をあげて取り入れていけばいいという着想に至った。彼の計算を實驗と比較する事で、それまで定性的ツールでしかなかったLEEDは、表面構造の定量的決定
手法としての地位を得る事になる。そこでPendryは、何か単純な典型物質を対象に實驗と理論の照合を行うために協力してくれる実験家を身近に捜してい
た。同じ時期に丁度、今では表面科学の世界的な権威であるDavid
TaborがキャベンディッシュでLEED實驗をやっていたので、我々は彼に共同研究を持ちかけたのだが残念ながら実現しなかった。というのは、
Pendryが望む定量的実験を行うには、Taborが當時持っていた実験設備ではダメで、より複雑な装置を新しく組み上げなければならなかったからであ
る。それで丁度、そのような新しい装置を組み上げたところだったスウェーデンの研究者に此の話を持ちかけて共同で研究を遂行し「あとは歴史」である。た
だ、これはTaborを責めているのではなく、彼は當時、金属表面酸化の初期過程に關する先駆的な仕事を手掛けており、Pendryの申し出に応えようと
すると、装置の大幅な變更やそれに伴う時間も問題となったであろうし、それに研究資金の元々の目的から逸れてしまうというのが恐らく最も大きな障碍だった
ろうと思われる。実際、Pendryの方法が確立されてからは、すぐにTaborグループにいたLionel
Clarkeが、Pendryの目的にそぐう装置を組み上げ、Pendryの計算コードを使って解析を行った。
7. 教育上の変革(其の1):科学の社會的責任
1960年代になると科学者の置かれる社會的立場が大きく変わってきた。それまでのように表には出てこないで其の専門性が無批判に受け入れられるという
性質のものでなくなったという事である。原子爆弾の問題は科学者の社會的責任について大きな焦点となった。また1960年代中盤には環境問題に関連した話
題の著書として、Rachel Carson著の「Silent Spring(邦題;沈黙の春)」や、ローマクラブ(NGO団体)の「Limits
to Growth(邦題;成長の限界)」が現れ、こうした問題への認識も高まってきた。
そういう訳で、AndersonとHeineで(Andersonの着想であったが)、「科学、技術、そして社會」という講義を開講し、約10年、
Martin Richardsや後にはMalcolm Ruelとの共同で此を運営した。此にはSir Eric
Ashby(後にLord)の助力もあり大変助けられた。この課程は8項目あるいは12項目の独立した講義からなっていて、若干の重複をしながらも、毎年
内容の異なる講義を行った。講義の担当は殆ど全てケンブリッジの人間が行い、科学哲学から、エネルギー政策、環境、「緑の革命」、原子力兵器政策、人口問
題、医療倫理の分野からの専門家が担当した。例えば体外受精技術で著名なBob
Edwardsなども其の一人である。Andersonは2つから3つ、Heineは1つの講義を、科学マネジメントという内容で担当した。この課程には
150人からの聴衆が学部生からビジターに至るまで広い分野に亘って参加した。
キャベンディッシュ研究所内では此の受講を物理学及理論物理学第二(Pt II Physics and Theoretical
Physics)の単位として認めたが、他のいかなる学士コース、例えば歴史専修コースや科学哲学専修コースであっても、このコースの受講は単位としては
認められなかった。
8. 教育上の変革(其の2):理論物理學
1950年代、自然科学学士コースの内容は、数学や理論に對して非常に整合性の惡い状況になっていた。数学は他の自然科学科目とは「異なる」扱いになっ
ていたのである。例えば當時の学生は、初年度に必修四科目とは別に、数学で必ず優をとらなければならなかった。そうしないと何と次年度に「自然科学の数
学」という科目を履修する事が出來なかったのである。当然、数学は必修ではなかったので、数学の履修状況も惡く、物理關聯の全ての講義は、高校までの数学
以上の知識は前提としないで行わなければならなかっず、随分、骨の折れる講義内容になった。一方、数学の講師陣も、自分たちが相手にしている学生達が物
理、あるいは場合によっては化學や生物を履修している事など前提としなかったので、講義の内容は無味乾燥な純粋数学、つまり、具体的イメージを欠いたよう
な内容となり、自然科学方面への数学教育としてはふさわしくない内容になっていた。1960年代中盤までには、物理の学生は事実上全員、初年度に数学を履
修していて、単位規則の方も、彼らが次年度に「自然科学の数学」を履修可能とする條件が良に下げられた。それで2年次にも続けて数学を履修している学生は
かなりの割合にはなり、上記のような状況は若干は改善されてはいた。正式には、正規の講義を編成出來るのは学科のみで、また全てのインフォーマルな「監
督」教育はカレッジの裁量であったが、Heineは純粋にボランティアで(キャベンディッシュ研究所という一部局の非正規の立場から)、学科講義の演習枠
を理論物理の教育内容に充てた。此は2年生を対象に物理の講義内容から題材を採り、此を、より数理的にスッキリした形で扱い直すという内容であり、学生が
初年次に履修した数学を實際に使って物理の問題を扱う事で物理・数学共にもっと血の通ったものに感じてもらうという事を目的に据えた。このクラスは相当評
判が良かったので現在に至るまで存続している。
當時、「正規の」理論物理學教育は全て、「應用數學及び理論物理學科」で数学学士コースとして編成されていた。ただ其れは理論物理學というよりは物理数
学と呼べる代物であった。そこで1950年代に、かのHartreeが物理3年次の物理學第二の實驗実習の時間枠から選択題材として理論演習的なコースを
開設して、熱伝導方程式など古典論における偏微分方程式の解法や、あるいは、量子力學でのシュレーディンガ方程式の解法などを講じた。1960年代には、
このコースはRichard
Edenに引き継がれたのだが、ある日、彼がHeineの所に來て、「若干の例外はあるかもしれないが、我々の手でより質の良い理論物理學の教育課程を設
置出来るんじゃないだろうか」と提案し、実際、これは実現の運びとなった。この理論教育課程は其れまでの實驗実習の全ての時間枠を引き継いで、これを通常
の3年次の物理の講義内容全てに置き替えて、さらに3回分を解説付きの例題演習に時間に充てた。開講の主眼としたのは、学生が一應、一度は聞いたことのあ
るという事項に對して更に理解を深め、実際に手を動かして問題を解けるレベルにもっていくという事である。この課程に関して、唯一問題といえば、それが随
分ポピュラーになりすぎて、学科の實驗家達の鼻をあかす事になってしまったという事である。当然のことながら、HeineとTCMはこのコースの教育担当
とコースの保護・保守に指導的役割を果たした。
9. Sam Edwardsの参加、高分子・統計グループ、1972年
Sam Edwardsは1972年に「Humphry
Plummer教授職」として着任した。彼の研究對象である高分子物理学は、色々な意味で従来の固體物理學とは異なるため、高分子物理にも収まりが良いよ
うに、其れまでの「固体理論部門(SST; Solid State Theory)」という名稱が「凝縮系理論部門(TCM; Theory of
Condensed Matter)」と改められた。
ほどなくEdwardsは英國科学研究委員会(Science Research
Council、現EPSRC)の委員長となったため、ロンドンに張り付かねばならなくなった。それで列車での移動中に学生を指導したり、あるいは會議の
議長を務めながら多重積分に取り組んだりという生活となったが、實は此の時期が最も業績の上がった時期でもあった。彼は、P.W.
Andersonと共にレプリカ法を開發し、これをスピングラスの問題に適用した。其処では秩序パラメタを如何に定義するかという事が問題となったが、此
に解答を与える形でスピングラス転移の平均場理論を構築した。これは後にスピングラス関連の産業や、あるいはニューラルネットワークに關する分野の勃興を
もたらした。ポリマーの運動は蛇が這うような蛇行運動であることが明らかにされた。即ち、絡み合った長鎖の分子が、まるで筒の中にあるが如く、くねくねと
這い登り、一方の端を伸ばしながら、他方の端を縮み上げて進む(Masao
Doi(土井正男)との共同研究)。また、束縛緩和と此に起因する分子歪は、理論的に明快に説明され、レオロジーという産業的にも巨大で重要な一分野の基
礎を築く事になった。また「Doi and Edwards」の標準的教科書も著された。
統計物理學分野のポストに新しいスタッフメンバーとして、Robin Ball、Mark Warner、Mike
Catesが着任した。Robin BallはDLA問題(diffusion limited
aggregation;拡散に支配された凝集)の創始者となる。此は例えば雪や煤といったフワフワした物体がどうやって形成されるかを扱う問題である:
小さな凝集核が一旦生成されてしまえば、これを中心にして、個々の分子なり煤煙微粒子なりが、その核に次々とくっついて成長する。こうやって出來たクラス
タの表面の次々と分子がくっついて、それでフワフワした物質が成長するというのが尤もらしい説明ではあるが、雪や煤にも様々な形態があるので、此には多様
な説が存在する。これらを系統的に分類するという仕事を80年代から90年代にかけて手掛けたのがRobin
Ballである。具体的には、高速で高効率なシミュレーションプログラムを開發し、様々な仮説から出發して実際に何が起こるのかシミュレーションする事
で、其の考察・説明を与えた。Robin Ballは1998年にWarwick大学の教授職に栄転した。
Mark
Warnerは液晶弾性体に関する初の理論を構築し、次いで準結晶に関する數多くの現象を発見した。例えば、少しの熱や光照射で長さが5〜6倍にも變化す
るような固體の存在を予見したり、またエネルギーを要さずに形状を変える奇妙な固体、あるいは右手と左手のような違いを持つ固體、更にはちょっと励起すれ
ばレーザ発振する物質や、伸張を与えると発光色を變化さす物質などである。
Mike
Catesは、多數の石鹸分子からなる分子鎖を考え、この系が、分子鎖の絡み合った状態から互いに這い出す方を採るか、あるいは、この状態自体を廃して再
構成する方を採るかといった問題に取り組んだ。彼は、タマネギ構造、ワーム構造、あるいはシート構造を形成する両親媒性分子について、その複雑相一般につ
いての専門家となる。彼は、1994年にエジンバラ大学の教授職に就任する。
この分野で記憶に残る学生としては、豪州からMark Warnerのグループに参加していたDavid
Williamsがいる。かれは鐵脚の士として知られており、休暇には数千キロもの距離を2,3週間もかけて自転車で走破するような事をしていた。午後か
ら自転車でマンチェスターに出掛けていったこともある。山岳マラソンやトライアスロンも得意であった。研究にかけても疲れ知らずで現在はキャンベラ大学で
應用數學科の学科長を務めている。
Sam Edwardsは産業界にも非常に太いパイプを持っていた。Mark
Warnerの教職ポストの初期資金も産業界から持ってきたし、また、後には、ポリマー・コロイドグループ(P&Cグループ)での実験・理論の巨
大プロジェクトでは、Unilever(英国の企業)から資金を調達したりした。
上述のP&Cグループは、長年TCMのメンバーであったAthene Donaldを長として創設された。Sam
Edwardsは退官に伴ってP&Cグループに移り、また、Robin Ball、Mike Cates、Mark
Warnerは、P&Cグループで理論のポスドクを指導した。
1984年から1995年の引退まで、Sam
Edwardsはキャベンディッシュ教授職を務めた。また学科長を7年間を務めた。退任後も主に粒状物質を對象とした先駆的研究を続けている。
Sam Edwardsが主催するキース・カレッジの貴賓向けディナーは大變有名で、Doreen
Aldertonが此を取り仕切った。このディナーには産業界の大物が招かれることもあったし(誰が言ったか忘れたが、「研究資金の呼び水」として機能し
た)、また例えば、Pierre-Gilles de Gennes(※後のノーベル賞物理学者)といった研究上のゲストが招かれることもあった。
10. Brian Josephson
Brian
Josephsonの初期の業績については第4節に述べた通りである。1970年代以降は理論物理学の視点から、脳の機能とか、あるいは何か他の自然のプ
ロセスと関連づけて、自然界に於ける知的プロセスをざっと特徴づけるといったような問題に取り組んでいる。彼はまた、量子力学の基礎的問題、特に観測問題
と心理プロセスとの關聯についても取り込んでいる。
Josephsonは何年にも亘って、「Journal
Club」なるものを主催している。此は、物理全般の分野で、面白い着想やちょっとした業績についての論文紹介といったものであり、大学院生やTCMメン
バーが参加している。
11. 電子構造理論と第一原理計算の始まり;1975 〜1990年代まで
1975年にPhil Andersonが転出すると、Volker
Heineが後任の教授職に昇任した。グループの旅費や招聘に関する出費は永年、Andersonがとってくる米国空軍絡みの研究資金で賄われてきたの
で、彼の抜けた穴は大きかった。そこでHeineのやるべき最初の仕事は、英国科学研究委員会(EPSRC)に掛け合って、これらの資金を確保するという
事であった。當時、實驗家はシンクロトロン実験施設とかILL(フランスにある中性子散乱研究所)に行くための旅費を、寄り道も認めて補助されていたが、
理論家には旅費は必要ないものとされていた。當時の科学研究委員会の資金給付の構造は、少なくとも物理分野に關しては、實驗家により實驗家のために運営さ
れている觀があった。しかしながら、新しい概念というのは実際、殆ど理論家によってもたらされるのだから、理論家が最先端を走るためには出張・招聘という
のは致命的に重要な事項なのである。いずれにしてもHeineは、旅費・招聘こそが理論家を一流と二流を分かつ要素であるという議論を詳細な例をあげて展
開し、EPSRCを説得することに成功した。
もう一つの問題は、個人の研究奨励金の余剰を流用する事が認められていなかったという不都合である。研究奨励金をもらっている人間がカレッジのフェロー
に採用されたり、あるいは転出した場合には、研究を引き継いだ人間に、余った奨励金を引き継がせることが許されていなかった。研究奨励金は期間2年でキッ
チリ區切られていたという事情もある。一度など、John
PendryがDaresbury大学に移る際、余剰資金が2つ生じたので此を一つにまとめようとすると、當局側は大学を告訴すると脅して混乱を引き起こ
した(Heineが此の事について言及した際、當時の学科長だったPippardなどは「そんなのは告訴させたらよい。どうせかこっちが勝つ事だ」と言っ
ていた)。高エネルギー物理学のグループでは、この問題を上手いこと解消していて、グループ全体として奨励金を獲得し此を流動的に運用することで問題を回
避していた。ただ此の扱いは別委員会の管理下で認められた特例であって、そのような「流動的奨励金」は科学研究委員会の一般慣行としては許されていなかっ
た。Heineは此の事について再び説得を挑まねばならなかったが、物理委員会のRoger
Elliot委員長はHeineの主張を支持してくれた。というのは、Elliot委員長自身も以前、此の事について経驗を持っていて、奨励金の流動性が
オックスフォードの理論グループに多大な活性化をもたらしたという事実を肌身で感じていたからである。また、Sam
EdwardsがEPSRCの委員長であった事も背景として効いていたと思われる。彼がTCMに戻った際にも事が効いてくるからである。そう言うわけで流
動的奨励金が実現の運びとなりグループ全体の旅費、招聘、また後述するようにコンピュータ周りの物品にも使えるようになった。此の資金は異なるプロジェク
ト間でも流動的に使えたし費目間流用も可能だったので、Richard Needsのために電算機室を開設するに当たっても大いに役にたった。
Roger Haydockが準講師職に着任し、いよいよ彼とChris
Nexのリカージョン法が本領発揮の時機となる。この手法ではアモルファス物質の電子状態や格子振動を計算することが出来、また、鐵中で局所磁気モーメン
トがランダムな方向に向く問題や磁気秩序のない状態などを扱う事も出來る。当時、このような計算は他の誰も行うことは出來なかった。Roger
Haydockはオレゴン大學に移った後も、毎年夏にはTCMで数週間過ごす生活を続け、当然、サバティカルもTCMで過ごした。彼がオレゴン大学でグ
ループを創設するにあたって、James AnnettとMatthew
Foulkesを引き抜いた。彼らはTCMで1年間、HaydockがTCMを訪問して指導し、ケンブリッジで学位を取る様にし、その後、Oregonの
所在地Eugeneで2年間研究を行ったが、これは結果として、彼らにとって素晴らしい経験となった。
70年代後期には、Richard MartinとMarvin
Cohenによる平面波基底擬ポテンシャル計算が現れ、固體の諸過程や物性が驚くほど良く記述される事が示された。Heineはそれまで大規模計算を手掛
ける経驗はなかったが、Martinらの研究動向を受けて、こうした大規模計算が此までなかなか打開できなかった問題に新しい途を拓くであろうという認識
を持つに至った。1980年辺りの話であるが、科学研究委員会(EPSRC)が其の発足時点において電子状態計算の分野を考慮していなかった點について
Heineは苦言を呈した事がある。此に對して、當時、物理学委員会委員長だったMike
Hartは、ある大物人物に打診して此の件を優先的に扱ってもらえないかどうか訊いてみると答えた。翌年、ケンブリッジ大学の学科に、「若手新潮流ポス
ト」という新設ポストの予算が付いた。此は、旧態化した学科に新しい講師陣に取り入れ、新しい血を吹き込もうという名目で設けられたポストで、Heine
は此処に、誰か電子状態計算の研究者を配置する旨、提案したのだが、此は當時のキャベンディッシュの権力筋によって非常に低い優先順位に廻されてしまっ
た。ところが、初年度は提案採択は大学ではなく科学研究委員会(EPSRC)が行うことになっていて、大学にとっては悔しいことに、此の委員会裁定は大学
側の意図と完全に独立した意向によって行われた(此の噛み合わせの惡さから、次年度以降は委員会裁定が介入することは禁止となった)。結果、上記の大学権
力筋の意向を排して、Heineの提案が採択される事となった。ところが問題は適任者選定である。人を置こうにも、當時、電子状態計算に習熟した適任者が
此といっていなかったのである。この話に興味を示したのが、當時、Sam
Edwardsの下でポリマーのシミュレーションを手掛けていた大学院生Richard
Needsで、新しい分野に鞍替えしたいと申し出た。そこで當時としては前代未聞の措置であったが、最初の1年、電子状態計算を習得すべく、(米国の)
Richard MartinのもとにNeedsを特別に出張させるという措置をとった。1年後、Needsは米国から戻る際に、Karel
Kuncの開発した実用コードを持ち帰り、これを土台に研究基盤を拡げていった。この基盤から輩出した人物としては、Neville
Churcher、Dominic King-Smith、Ching Cheng、Abdallah Qteish、Jyh-Shin
Linといった人物が続く。此を適用した研究としては、SiCの相図計算や、表面構造における表面應力の問題、電子放出、水分による水晶の劣化問題など多
岐に及ぶ。
ところで、電子状態計算が大規模化するにつれ、必要となる計算機資源の問題が出てきた。これは、大学当局や、国家機関、特に科学研究委員会
(EPSRC)との闘いであった。當時、制度上の決まり事として、大学では7年程度毎にメインフレームの計算機が機種更新され、一方、大型スーパーコン
ピュータは科学研究委員会(EPSRC)が一台を集中的に管理し、研究者は研究資金を投じて若干の計算時間をもらうという体制になっていた。つまり、
EPSRCでは、小規模グループで手掛けるような科学計算には對應しないという体制をとっていた(但し、高エネルギー素粒子物理の連中は例によって特別優
遇で例外である)。ところが、ワークステーションの出現で、こういう制度自体が非常に非効率的で意味を持たなくなった。例えば、當時の大型計算機センター
はラザフォード研究所にあり、100人程度が従事するような大きなものであったが、其処で我々に割り当てられた計算時間は全く不十分だった。そこで我々は
EPSRCの研究資金枠に応募し(一部、大学からの研究資金だったが)、1年のやりとりの後、研究資金を獲得してVaxの浮動小数点計算ベクトル機を購入
した。これは件のラザフォード研の大型計算機を大幅に上回る計算機能力をもっていた。まあ、殆ど一台分の値段で2台のベクトル機を得たという事情もあった
が、此はまた別の話である。David
Hartleyのチームによる計算機サービスは非常に質が高く、彼らこそは、英国の大學で最初に計算機のネットワーク化や資源分散化を牽引した集団であ
る。
此の時期にも物理として良質な研究が進行しており、此の時期の代表人物としては、Kiyo Terakura(寺倉清之)、Bernard
Buxton、Pedro Echenique、Angela Lahee、Mike Gunn、 Mathew Foulkes、James
Annettといった面々がいる。また、Rex
Godbyは米国より帰国して、GW法によるバンドギャップ記述の改良を手掛け、この分野に大きく貢献した。
此の時期の秘書は、Celia Groomで、TCMの在籍メンバー(Dave Kingham)と結婚した唯一の秘書である。
12 最優先課題としての欧州内の共同研究
Richard
Needsが米国から戻った頃(→§11)、彼と同じ計算手法を欧州内で手掛けている若手研究者はNeedsの他に僅か4名だけで、いずれも米国の
Marvin Cohen、Richard Martin、Michael Schlueterらに師事した、パリのKarel
Kunc、ドイツのMathias Scheffler、コペンハーゲンのOle NielsenやSverre
Froyenであった。Heineは「若手新潮流ポスト」創設の経緯(→§11)や此の分野への期待といった事もあって、定例学会の最後に小さな研究会を
主催した。此の席でHeineは、上記の若手総勢5名の相互協力こそが、米国に勝るような最先端研究の鍵である旨を主張した。Schefflerは此を受
け、「Total Energy and Force
Method(全エネルギーと力の計算手法に関する研究會)」と銘打たれた研究會を翌年開催する旨、引き受けた。此の研究會は、以降、毎年トリエステの
ICTPを中心に運営され、Needsは其の指導的役割を担っている。此の會議は現在では世界的に重要な會合として電子構造計算の最新の進展を議論する場
を提供しており、米国からの参加をはじめ、日本からもKiyo Terakura(寺倉清之)の参加がある。
また同じ頃「Britain CCP9」が発足した。CCPとは「Collaborative Computing
Project(計算機共同プロジェクト)」の略称である。1978年にスーパーコンピュータ「Cray
1S」が欧州ではじめて学術研究に供され、英国Daresburyに設置された。この高価な研究資源を広く有効活用するために、Daresburyのス
タッフ一名が世話人となって学術研究者の参加を呼びかけて、CCPの會議が連年開催された(但し、化学分野は、独自で、もう少し計算資源にも恵まれていた
ので、この動きには参入していない)。このCCPでは、ポスドクが旗艦プロジェクトを立ち上げて大きな資源を享受するような事も可能であった。電子構造計
算の主要事項については数々の研究会が開催され、これによって重要な計算コードが開発・保守された。例えばドイツやオーストリアで精力的に研究開発されて
きたCPA(コヒーレント・ポテンシャル近似。合金や磁気秩序の熱的非秩序に対する近似法)を用いたKKR法の計算コードも、此の様な動きを通じて保守さ
れたコードの一つである。CCP9の理念は、したがって、当初から歐州一円を意識しており、英国一国の動きということではなかった。この事は、CCP9の
主要活動メンバーの姓(Balazs Gyorffy、Walter Temmerman、Dzidka Szotek、Volker
Heine)が歐州の典型的な姓である事実からも明らかであろう。CCP9で支援されたもう一つの重要なコードが「CASTEP」である(→§15)。
上記二つの流れは、現在では、歐州聯合ECに基盤を持つ「欧州トレーニングネットワーク」、及び、歐州科学財団(European Science
Foundation)の傘下である「Psi-k」から、夫れ夫れの基金で支援されている。TCMグループは此の二つの流れ共に積極的に関わっており、
Richard Needs、Mike Payne、Volker Heineが、此らいずれかのネットワークには必ず参加している。また、Rex
Godbyは現在、別の研究コミュニティ運営の委員長を務めている。
上記のような研究ネットワークや共同関係が、第一原理シミュレーションにおける現在の歐州の地位の構築に大きく貢献したことは間違いない事実である。
13. 鉱物学を石器時代から脱却させる:鉱物物理学の誕生
研究活動においては既に開拓された領域で仕事をするよりも寧ろ新しい研究領域を開拓する方が面白いものである。或る日、Des
McConnellがHeineの部屋にやってきて、ドア一杯の体躯で立ちはだかって曰く「あなたは多分、對稱性の事をよく分かって居られるだろうから、
ちょっと聞いて欲しいんだが...」と切り出した。彼は當時、ケンブリッジ大地球科学鉱物學のReader(助教授職)で、長石やその他珪化鉱に見られる
非整合周期構造の起源をめぐって自身のアイデアで仕事を進めていた。こうした非整合周期構造というのは、金属においては、フェルミ面のもたらす効果として
よく知られており、TCMでも此を扱った論文も數本が存在したが、彼の扱う問題は絶縁体であり、當時、その起源は完全に謎とされていた。いずれにしても此
の訪問以降、パブでの昼食會合を何度か繰り返し、非整合周期構造を持つ絶縁体物質や此の手の問題に、固體物理学や計算機シミュレーションの手法で對処出來
ないかどうかといった事が議論された。TCMにおけるその後の研究活動には、非整合周期構造の問題、SiCのポリタイプの問題(積層順序に見られる多様
性)、水晶の水による劣化の問題といった課題がお目見えするが、此等は全て、此の「パブランチ」に端を発しているのである。
かくして鉱物学は物理学の着想と計算機シミュレーションの對象としての成熟果実的な分野となった。とある米国鉱物学の一流誌の副編集長は、数年後に以下
のように述べている「編集者の立場から見て、鉱物学は純粋な博物学としては末路を迎えた。今後はより定量的で、且つ、「何故?」を問う学問となるべきだろ
う、即ち、より物理学たるべきである」。そこで、HeineとDes McConnellは、オックスフォードのJulia Yeomans
(統計力学)や、ロンドン大学のDavid Price (鉱物学,
McConnellの高弟で嘗てHeineの居たカレッジで研究員を務めていた)をセミナーに呼び、色々と交流を深めた。此の繋がりが色んな段階できっか
けを呼び、物理や化学から地球科学科のポジションに人が着任する事に結びついた。例えば、Martin Dove、Ekhard Salje
(ドイツ出身で既に物理学から鉱物学者に転身を遂げていた)、ケンブリッジ出身者としてはEmilio
Artachoが其れにあたる。彼らのグループの発足当初はTCMが此をサポートし、共同プロジェクトあるいは某かの共同研究名目で2〜3名の研究学生ポ
ジション確保した。共同研究名目には、例えば「分散プロセッサ型特殊計算機に関する研究」といった題目を据えたものである。此の分野は今では鉱物物理学と
呼ばれているが、ケンブリッジが主たる発信源であり、しかし決して排他的でない形で英国中や、あるいは大なり小なり欧州大陸に拡がっていった。数年の間は
TCMが英国におけるこうした動向の牽引役であった。
14. 量子モンテカルロ法
今更説明する必要もないことではあるが、量子モンテカルロ法(QMC)は、§11及び§15で述べた第一原理手法を行う上で、ずっと精密で近似の少ない
手法である(もちろん未だ排除できない「アキレス腱」たる近似も残る)。量子モンテカルロ法は大雑把にいって1000倍は計算機パワーが必要になるので、
1990年頃までは實用計算には程遠い手法と思われていた。しかしながら新領域開拓的な魅力は同じくらいに大きく、Richard
Needsが此に取り組みはじめた。彼は元々DFTの研究者であるが、こちらはCASTEPプログラム(→§15)を開発したMike
Payneにバトンを引き継ぎ、Needs自身はQMC計算の世界的専門家へとなった。そうこうしているうちに計算機パワーがMooreの法則にしたがっ
て情け容赦なく伸びて、QMC計算で現実的な固体を扱う事すら遠い望みではなくなり現実的に實行可能な課題となった。
NeedsグループによるQMCプログラム開発では、初期の段階でGuna Rajagopalが重要な役割を担った。最近になってMike
Towlerが精力的にこれを引き継ぎ、強力なCASINOプログラムへと成長させた。こうした大事業には、もちろんの事ながら數多くの大学院生、ポスド
クの貢献がある。主な功労者としては、Steve Kenny、Andrew Williamson、Paul Kent、John
Trail、Neil Drummond、Pablo Lopez
Riosといった名前があがる。興味深い適用對象としては、炭素の各種形態の安定性、様々な系での交換相関孔の形状、半導体クラスタでのバンドギャップの
バリエーション、あるいは半導体の欠陥に関するエネルギーなどがある。
Mike
Towleは、CASINOプログラム以外にも大きな貢献があって、特筆すべきなのは、彼が発案・導入から運営まで行っているコーヒー・マシンがある。こ
れはプロ仕様・業務用の大型エスプレッソ・マシンで、イタリアの本格的なコーヒー豆を使用している。彼はポスドク時代の2年間をイタリアで過ごし、イタリ
アをこよなく愛する事が背景となっている。毎週行っている「Electronic Structure Discussion
Group」(電子構造理論に関するセミナー)は旧くはMichel Coteが創始したが、今ではMike
Towlerが精力的に運営し、理論化学や、Emilio
Artachoなど地球科学からも参加者もある。さらにTCMフィルムクラブ(映画鑑賞会)、「新コーヒー文庫」(文化的書物の撰集)他、喫茶ラウンジに
おけるアミューズメントも数多く運営している。じきに結婚し父親となる事で若干ペースが落ちる?と思われるが、今後のアクティビティが楽しみである。
15. Mike Payne, CASTEP/UKCP and ONETEP
Mike Payneは1985年から一年間、MITのJohn
Joannopoulos教授のグループで過ごした。Joannopoulosは、IBMのYorktown研究所でRoberto
Car自身からカー・パリネロ法について最初に話を聞いた人物の一人である。Joannopoulosは此の手法が第一原理計算の将来的な切り札になると
直感しPayneにコード開發をさせる事にした。
PayneはTCMに戻ってからも此の仕事を続け、研究グループには優秀な学生やポスドクが集まり徐々に拡大していった。参加メンバーには
Allessandro De Vita、Ivan Stich、Victor Milman、Ruben Perez、Ian
Robertson、Graham Francis、Guy Makov、Carla
Molteniといった面々がいる。HeineはCCP9に働きかけ、此の手法を同プロジェクトの旗艦として発展させるよう調整した。その結果が
CASTEPプログラム(CAmbridge Sequential Total Energy
Package)であって、広く英国や欧州の研究グループに普及している。
1991年には研究プロジェクト「SERC
initiative」によってエジンバラに64ノードのMeiko並列計算機が導入された。其の主目的は素粒子分野(量子色力学;QCD)の計算であっ
たが、研究経費をSERC内の他の分野にも分担してもらう事として、演算時間の25%がカー・パリネロ法シミュレーションに割り当てられた。
すぐに英国カー・パリネロ計算コンソーシアムが組織され、オックスフォード、エジンバラ、バース (David
Birdのグループ)、ケンブリッジの各大学の研究グループが共同で研究資金の提案書を書いたのだが、この際、カー・パリネロ法が並列計算に乗るかどうか
という事が大きな問題となった。電子状態計算においては「ブロッホ凾數の展開係数を分散処理させる」という事に相當する訳であるが、當時、並列計算などは
極く萌芽期にあり、かつ波動凾數は分割できない一枚岩の量だと考えられていたので、後にMike Payne
が或る会議で表明する「k点毎に分割した分散処理」という着想になどは人々は中々至れなかったのである。その会議での人々の驚きも今となっては昔話であ
る。さて、件のコンソーシアムは並列計算機上で稼働するCASTEPのパラレル版の開發に成功し、Edinburgh Parallel
Computing Centre (EPCC)の貢献に謝して「CETEP」(Cambridge-Edinburgh Total Energy
Package)と名付けられた。CETEPは、DFTで数百もの原子を扱うという大規模計算の方向性で真に世界をリードした計算コードである。
CASTEPは1994年にMolecular Simulations社
(後にAccelrysに改称)とライセンス契約を行い無料頒布を終了した。この事で電子構造理論のコミュニティから批判も上がったが、此の決断は不可避
であった。というのは、研究委員会(文科省)がポスドクの資金を断った背景があり、ユーザ層を増しつつあるCASTEPの機能拡張や、新規計算機上での運
用に關する取組みの道が此の儘では継続出來なかったからである。CASTEPは今では6百万ドルを超える売上げを達成し、AccelrysはTCMの卒業
生をかなりの數、雇用している。CASTEPは1999〜2002年の間にコードが整備されたが、これに貢献したのは、Matt
Segall、Chris Pickard、Matt Probert、Phil Hasnip (以上TCMメンバー)、Stewart
Clarke(Durham大学)、Keith Refson(Rutherford-Appleton研究所)、Philip
Lindan(現Kent大学。コードの整備事業立上げに大きな役割を担った)といった面々である。新しいCASTEPはPayneやHeineでも解る
ようFortranで記述されている。
CASTEPの計算コストは、通常の多くの電子構造理論法と同じく、系のサイズの3乗に比例する。Mike
Payneにとっては、此のようなコスト・スケーリングは好ましくなく(それは例えば再帰法よりもずっと惡い)、特に彼が大きな興味を向けつつあった生體
系への應用など、将来的に大きな系を扱う際の憂慮事項であった。此の課題には、Peter
Haynesが10年近く取り組みを続け、系の原子数の1乗にスケールするよう計算コストを改善した第一原理手法を開発しつつある。特に此の4年間では、
Arash MostofiとChris Kriton-SkylarisがHaynesと協力して、ONETEPプログラム(Order N
Electronic Total Energy
Package)を開發し、数千原子の系をCASTEPと同精度で計算出来るような實装を手掛けた。ONETEPプログラムは、TCMを再び電子構造理論
の未踏分野に推し進める役割を果たしている。
16. David Khmelnitskii
David
Khmelnitskiiの参加によって、近年のTCMの雰囲気は深い味わいを増したと言える。Khmelnitskiiは、主にMike
Pepperが尽力してケンブリッジに引っ張ってきた人物で、Trinityカレッジで名声高い「Title B
Fellowship」に選出された。TCMは、この畏れ多く文化の薫り高い物理学者を受け入れる特権を享受し続けているのである。
KhmelnitskiiはChernogolovkaにあるLandau研究所に育った非常に優秀な物理学者の一人であって、その最初の卒業生である。
彼の学位論文は、後に米国でWilsonの手によって著名となった繰り込み群の應用に先んじた草分け的な仕事であった。Landau研究所の常勤メンバー
として奉職し、局在、整数量子ホール効果からメゾスコピック物理といった分野の幾つかの業績を以て、此の分野の開拓に貢献した。またJETP
Lettersの編集者を努める事により、文献に関して卓越した知識を身につけた。現在も、その専門分野において清廉潔白な査読者として卓越した能力とバ
イタリティを発揮し続けている。最近では、TCMで行う素晴らしい講義で、その名が広く響いている。レギュラーに担当する講義の他に、「Fairy
Tales」と銘打たれたオムニバス的な講義を行い、物理学の広い範囲に亘る話題をカバーしている。総括するに、彼は我々にとって哲人であり高僧である。
最近は、局在に関する話題をはじめ多様な主題を取り扱った研究を展開しており、強相関電子系のグループにも参画している(→§18)。
(続く:to be continued)...
20. 付録: 教職スタッフの在籍期間リスト
※原文では順不同であったが、ここでは着任の古い順に直した。在籍期間は教職スタッフの地位にあった期間のみを示す。
[Nevill
Mott
; 1954 - 1974]
John
Ziman
; 1954 - 1964
Volker
Heine
; 1958 - 1997
David
Thouless ; 1964 -
1966
Philip
Anderson ; 1967 - 1975
John
Lekner
; 1967 to 1973
Brian
Josephson ; 1969 to
present
Sam
Edwards
; 1972 to 1994
John
Inkson
; 1974 to 1984
Roger
Haydock ;
1977 to 1982
Richard
Needs ;
1983 to present
Robin
Ball
; 1984 to 1998
Mark
Warner
; 1986 to present with short break in P&C
Michael
Cates ;
1990 to 1994
Michael
Payne ;
1991 to present
David
Khmelnitskii ; 1991 to present
Ben
Simons
; 1996 to present
Guna Rajagopal
(ADR) ; 1996 to 2001
Philippe Monthoux (ADR) ; 1997
to 2002
Peter
Littlewood ; 1997-present
Nigel
Cooper
; 2000 to present
[Tom
Duke
; 2002 to present in Biological Physics]
以下は計算機管理職スタッフ。何人かは研究奨励金による雇用からキャリアをスタートさせているが、いずれにしても最終的には大学の職員として在籍した。
Chris
Nex
; 1969-1999
Ian
Jones
; 1986-1992
Martin
Lally
; 1993-1998
Michael
Rutter ;
1998-present